特集
エミール・マールとともに教会堂を巡る


その3.ロマネスクの創造性(2009.2)

過去の特集へ

 第3回は、エミール・マールの著作「12世紀フランスの宗教芸術―中世の図像の起源に関する研究」の第2章後半から第5章をガイドに、ロマネスクに対するビザンティン芸術の影響及びロマネスクが創造した図像について、MORAのデータ・ベースから見ていくことにしましょう。

1.ビザンティン型の図像とロマネスクへの影響
 既にみてきたとおり、マールは、ロマネスクの図像のほとんどはロマネスクの作家たちが創造したものではなく、オリエントを起源とするさまざまな写本にある図像(マールはこれをヘレニズム型とシリア型に分類しました)の借用から生まれたものであることを明らかにしましたが、ロマネスクに先行するビザンティンにおいても同様のことが行われており、ビザンティン型というべき図像が誕生していること、そしてロマネスクはオリエント起源の図像に加えこれらビザンティン型の図像をも手本として用いていることも明らかにしました。

 オリエント起源の図像をもとにビザンティンが生み出したビザンティン型の図像として、マールは次のものをあげ、ロマネスクに対する影響について言及しています。

2.ロマネスクにおける図像学的創造
 ロマネスクの作家たちは、オリエント起源のさまざまな写本挿絵やビザンティン型の写本挿絵を手本として用いましたが、単に模倣するにはとどまりませんでした。マールは、ロマネスク初期の作品であるトゥールーズのラ・ドラード修道院やサン・テティエンヌ大聖堂の柱頭彫刻(いずれもオーギュスタン美術館に所蔵されています)に、既にオリエント起源の古い構図を突き崩すロマネスクの創造のエネルギーを見ることができるとしています(モアサックヴェズレーオータンコンク等の扉口に出現した壮大な構図は、まさにロマネスクの創造のエネルギーの爆発を感じさせるものです)。それに加えて、ロマネスクにおいて行われた創造の例として次のものをあげています。

 ロマネスクの作家たちは、オリエントやビザンティンを起源とする写本挿絵に着想の源を求めたとはいえ、単なる模倣を繰り返したり、ビザンティンのイコンにおけるように創造を避け形の忠実な再現を目的とするのではなく、かなり自由な発想で、修正、変形を加え、新たな図像を創造していったことがわかります。マールは、キリストの生涯等聖なる題材を扱う場合は伝統的な構図を尊重し、聖なる性格を持たない対象については自由に新しい発想で修正、変形を加えていったであろうと推定しています。

3.典礼劇からの影響
 10世紀末頃から、教会の典礼の中で復活祭を初めとして典礼劇が演じられるようになりましたが、ロマネスクの作家たちはこれらの典礼劇からも着想を得たとマールはいいます。

4.サン・ドニでのゴシックの誕生
 シュジェールがサン・ドニの修道院長の地位にあったのは1122年から死去する1151年にかけてですが、マールは、1135年頃、シュジェールが南フランスの作家たち(トゥールーズからモアサック、モアサックからボーリューへと渡り歩いた作家たち)をサン・ドニに呼び寄せ、作業に取り掛からせたとしています。
 サン・ドニの正面扉口は、1771年に著しく破壊されただけでなく、粗雑な修復を受けたことにより、芸術的価値は失われたとされていますが、構図については最初の状態が保存されていると考えられています。
サン・ドニ中央扉口の「最後の審判」のタンパンがボーリューを承継したものであることは、キリストが両腕を水平に広げていること(「審判のキリストは十字架に架けられたと同様の姿で再臨する」との中世の教義に基づくものです)、十字架の形状が同様であること(先端が広がり、交差部に円形が見られます)、同様の構成要素からなっていること(キリストの両側に控える使徒たち、ラッパを吹く天使、受難の刑具を手にして空中を舞う天使、墓から蘇る死者たち)等から明らかで、サン・ドニはボーリューの構図を整理し、より明確なものとして承継したということができます(なお、ボーリューではアーキボルトに装飾が見られませんが、サン・ドニでは「黙示録の長老たち」「天使」「悪魔」等の彫刻がなされており、南フランスのカオールやアングレームでなされた試みが取り入れられたものと考えられます)。
ボーリューのタンパンで誕生した「最後の審判」の図像は、シュジェールによりサン・ドニ正面中央扉口のタンパンで取り上げられ、以後、ゴシックの主要な主題として北フランスに伝播していくことになります(サン・ドニから後はキリストは両腕を上げ自分の傷口を見せる姿で表されるようになり、それがゴシックの定型となります)。

 シュジェールのサン・ドニでの試みは、「最後の審判」を明確な図像としてタンパンに掲げたことに加え、扉口側壁に旧約聖書の登場人物たちの人像円柱を並べたこと、「賢い乙女と愚かな乙女」の主題を最後の審判と意図的に関連付けて用いたこと等により、ゴシックの扉口の定型を生み出すものとなりました。そしてそれにとどまらず、サン・ドニ周歩廊でのリブ・ヴォールト使用の試みは、ロマネスクの教会堂を支えるに不可欠だった重厚な壁体を取り除き、教会堂の高さの構築と堂内への光の流入を可能にしました。その結果、壁体から独立した彫刻が飾られ、切り開かれた空間にステンドグラスが輝く、ゴシックの世界が誕生することになります。

 マールは、中世芸術の典型と考えられていたゴシックの図像の起源を探る目的で、当時、粗野で幼稚で芸術の埒外としか考えられていなかった12世紀の荒野に足を踏み入れました。その結果、彼が発見したのは、ゴシックの図像のほとんど全てが既に12世紀に出現していたこと、そればかりでなく、これらの図像を含め多数の図像が12世紀に開花していたという事実でした。13世紀北フランスを中心に建てられた壮大な大聖堂を飾る図像のほとんどが、12世紀南フランスの教会堂で発見することができたということは大きな驚きでした(12世紀半ばのサン・ドニもしくはシャルトルの西正面の完成をもってゴシックの誕生と見るのが通常ですが、ここではマールは12世紀をロマネスク、13世紀をゴシックに象徴させています)。
 そして、マールは、オリエント、ビザンティンからロマネスク、ロマネスクからゴシックへの図像の系譜を探り、「黙示録のキリスト」から「最後の審判」「聖母の戴冠」への推移を跡付けます。
 こうして、12世紀のロマネスクが西欧中世の宗教芸術の一時代を画すものであったことが正当に評価されることになりましたが、図像学による研究は、図像の誕生とその承継、展開に目が行き、ゴシックとは異なるロマネスクの特異性を浮き彫りにするには必ずしも十分であったとはいえませんでした。
 その課題は、ロマネスク彫刻の自律性を捉えようとするアンリ・フォションによって進められることになります。



TOPへ
過去の特集へ
HOMEへ