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長崎の天主堂を巡ってみました。
外海、平戸、五島などの寒村、岬の先端や離島の僻地に、時空を超えて屹立している天主堂の姿には、ヨーロッパの片田舎に点在するロマネスク教会堂と同じ高い精神性、宗教性が感じられ、深い感銘を受けました。800年もの隔りがあるにもかかわらず、「天主堂とロマネスク教会堂との間には相通じる何ものかがある」との思いから、MORAに特設のコーナーを設けました。
キリシタンの歴史については、キリスト教徒でなくとも壮絶との感慨を避けることはできません。
1858年(安政5年)、米蘭露英仏の5か国と通商条約が締結されたことで永かった鎖国政策は終わりを告げ、開港された函館、横浜、長崎の居留地内に、居留する外国人のために教会堂の建設が始められました。居留地内の外国人のためとはいえ、教会堂の建設が行われたのは1614年の禁教令以来、実に250年ぶりのことです。
こうして建設されたばかりの長崎大浦の教会堂に、隠れキリシタンである浦上の農民が訪れ、神父に「発見」されるという、1865年(元治2年)の「キリシタン発見」の感動的なドラマ、そして「浦上四番崩れ」、「五島崩れ」と呼ばれる最後のキリシタン大弾圧を経て、1873年(明治6年)、禁教令の廃止によりキリスト教はようやく公認され、晴れて教会堂の建設が行われるようになりました。
教会堂はキリシタンの神、天主に献堂された神の家として、まさに「天主堂」と呼ぶにふさわしいものです。天主堂の建設はキリシタンの悲願でしたが、永い差別と潜伏の歴史によって経済的にも困窮していた彼らにとって、並大抵のことではありませんでした。持てる資金と労働の提供により、各集落に天主堂が建設されていった感動のドラマからは、荒廃したヨーロッパの地に教会堂が次々と建設されていったロマネスクの時代と同様の宗教的高揚感を読み取ることができます。
天主堂の建設は外国人宣教師の指導により、主としてゴシック様式を取入れる形で行われました。このため初期の天主堂にはリブ・ヴォールトを持つものが多く見られます。
リブは重たい石造りのアーチ天井を補強し支える骨組みで、ゴシック様式における重要な建築要素のひとつですが、木造天井の天主堂では天井を補強し支えるというリブ本来の目的はなく、様式を模倣しただけの単なる装飾でしかありません。しかし、その装飾に徹したリブ・ヴォールトは、かえって天主堂の繊細さを印象づけ、息を飲む美しさを持っています。
そして、天主堂の建設の歴史には、外国人宣教師の指導を受け、日本独特の教会堂である天主堂を完成に導いた大工の棟梁、鉄川与助氏の存在を忘れることはできません。
(-おじいちゃんが建てた教会-http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/)
鉄川氏は、明治30年代から終戦時頃までにかけて、九州各地に木造、レンガ造、石造、コンクリート造の天主堂を50以上建設したといわれています。リブ・ヴォールト天井に代わり折上天井を導入し発展させるなど、建築空間に対する豊かな想像力は、まさにロマネスクの精神そのものであるといっても過言ではありません。
外海、平戸、五島などの僻地に建つ天主堂には、差別や迫害から逃れて潜伏してきたキリシタンの復活の歴史が刻まれており、その清廉な姿には胸にこみあげてくるものがあります。ヨーロッパ中世におけるキリスト教の復活がロマネスクであるとすれば、天主堂は日本のロマネスクであると言ってよいと思います。


